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私の戦後80年

りぷりんと目黒 櫻木 進

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アリス・ウォーカー 文
長田 弘 訳
ステファーノ・ヴィタール 絵
発行:偕成社

私の戦後80年前を少し思い出したいと思います。

1936年10月生まれの90歳です。終戦時は9歳母の実家。現在のあきる野市戸倉に疎開をしておりました。戸倉小学校2年生でした。

現在従兄弟が継承している三嶋神社が母の実家でしたので、村の人達から「むーくん」とよばれ、大事にされ戦火など遠い思いで、秋川や城山を友達と遊んでおりました。

父秀雄は、昭和19年に中国北支へ召集されておりました。

妹二人と母の実家に世話になっており、母方の親戚も東京から疎開しており、20人近い家族で賑やかでした。神社とはいえ生活するのに母は苦労したようです。

昭和20年3月10日の東京大空襲の時は従兄弟達と焼ける東京を見ておりました。東京の戦火が厳しくなるので、祖父母が生活して居る、文京区音羽町も心配して、母は荷車を出して引っ越しを促しましたが、祖父の一言“音羽が焼けたら日本は終わりだ”と言うことで、カラの荷車が戸倉に戻ってきたそうです。

そして、5月25日東京は一面火の海となり音羽も消失し先祖伝来の名刀が何本もひん曲がり、火鉢の中には大皿と茶碗だけが残っていたそうです。

益々日本中の戦火は激しくなり、昭和20年8月15日終戦を迎え、その日・本家の廊下で叔父叔母・従兄弟達と敗戦の玉音放送を聞きました。私は何の事か良く判らず友達と秋川へ泳ぎに行きました。大人達は、これから日本はどうなるのだろうと大変な事だったと思います。村の中でも戦地から復員して来る人がおりました。しかし父は仲々帰らず、母の気持ちはこれからの生活をどうしようかと考えたと聞きました。

私は、そんな心配をよそに遊んでばかりでしたが、従兄弟と畑に手伝った思い出もあります。

ある日従兄弟と畑の帰り丁度役場の傍の坂道の坂道やせ細った復員兵がやっとの思いで登ってきます。従兄弟が「おめえーのとうちゃんじゃねえか」と言われましたが、「ちがうよー」といいました。しかし帰ってみるとその人が父でした。

見る影もない父の姿でしたが、母の喜びは大変だったと思います。

父は“カイセン”の病にかかっており一年近く静養していました。

昭和22年秋父も元気になり仕事の関係で現在の菅に移住しました。

父は寡黙な人間でしたが、お正月等人が集い酒が入ると戦地の話を「ぽつりぽつり」と話し、死んでゆく戦友の服や靴を脱ぎ取り寒さをしのいだということです。

明治・大正・昭和・平成と生きて来た父です。赤紙一枚で命と引き換えに戦う。

ロシア・ウクライナ・イランと戦火が起きております。

「タコ」が落ちる時のように、くるくると世界が変わっていきます。

さて、私は「りぷりんとかわさき」に18年間活動して来ました。

妻共々読み聞かせ活動をしてきたことを嬉しく思っております。

以前、中野島中学校“お話ライブ”にて{戦争はなぜよくないか}をよみました。後の感想文で”戦争はすべてを破壊する“と書いている生徒がおりました。”絵本の最後に“戦争が正しいというならある日みんな飲まなければいけなくなるわ、戦争のしみ込んだ水を・・・・”と書かれています。

戦後100年を平和で迎えられます事を祈念いたします。



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