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80年前、私の父とおじさんたちは戦争から還ってきた

りぷりんと目黒 鈴木信男

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ジャンニ・ロダーリ 文
関口英子 訳
荒井良二 絵
発行:ほるぷ出版

児童館で60人ほどの児童にお話ししたことです。

少し前、中国やアメリカと戦争した。今から想像もできない。私が生れたのは1946年11月、その戦争が終わった翌年、今から80年近く前です。埼玉県の小さな町で、都内から電車で1時間の杉戸町。日光街道(江戸から日光東照宮へ)の宿場町になって400年です。

戦争はいろいろなものを破壊します。小学校に入った時は終戦から時間がたっておらず、貧しくてお米がなかなか手に入らなくて、イモやすいとん(うどんの塊みたいな)を食べていました。中学校の数学の先生は教え方が上手で話も楽しい先生でしたが、戦争中は陸軍中尉でした、中尉というのは数百人のチームのヘッドです。満州(中国の北のあたりです)で戦争に従軍していたときのことを思い出すのでしょうか、授業中に時折物思いにふけることがあり、そうした時は人が変わって大変きつい顔になり先生の周辺から血の匂いが漂ってきて、体が震えたことを今でも覚えています。みんな、そういう人に会ったこと、ないでしょう。

さて、私が生まれる前の、私の父とその弟たち、つまり叔父さんの話をしましょう。父は小学校を終えた後、中学には進学せず(その頃は中学に進学するのは少しでした)、洋品店で修業し、独立してお店を持っていました。結婚して4人の弟・2人の妹と一緒に暮らしていました。男5人兄弟と言うわけですが、うち、一番下の小学生を除いて4人が戦争に行きました。その頃は召集令状がくると兵隊に行かなければならなかったんです。家族は祖父、父、母、弟4人、妹2人の計9人だったが、このうち、家に残ったのは、祖父、母、小学生の弟1人、妹2人の5人です。なんと寂しい家族になったのでしょう。毎日心もとなく不安だったでしょうね。

父は、伊豆の大島に駐屯しました。幸い戦闘はなく終戦の年に無事に帰還しました。

次男の洋服屋さんは、テーラーで修業し自分の洋服店を営んでいましたが、招集され満州に赴任しました。このおじさんは私をとてもかわいがってくれました。しかし、戦争中のことは私にも、誰にも、ついに一言も話しませんでした。恐ろしい目にあったのか、恐ろしいことをしたのか、ともかく絶対に思い出したくない経験をしたんです。どれほどの恐怖であったのか、みんな想像できるかい? このおじさんは父よりもずいぶんと早く亡くなりました。

3男武雄さん、父の手伝いをしていましたが、招集されやはり満州に赴任、後、南方(オーストラリアあたり)に輸送船で移動し、途中その船が沈められて200人中11人が島に流れ着き、オーストラリア軍に見つからないよう隠れて生きているうちに8人が十分に食べるものがなくて亡くなり、生き残った叔父さんを含む3人は海岸で貝を見つけているときに(食べるため)捕まったそうです。なぜこの3人が生き残ったのか、それを分けたのは何だったのだろうか? 理屈はない、ですよね。 このおじさんは衛生兵でした。それで(と単純には言えないでしょうね、いろいろないきさつがあったでしょう)その後、病院で看護師として仕事をしたそうです。病院での出来事を、ときどき実に楽しそうに話してくれました。そしていつも最後に 「皆さん、優しくしてくれた、どうしてこういう人たちと戦争を始めたんだろう」とつぶやくときは本当に寂しそうな顔になりました。今でも忘れられません。

4男實さんは、学校の成績が良く体も健康優良児だったので小学校卒で少年飛行兵になりパイロットに(当時の少年のあこがれ)。空中戦で戦死。同期27年人中、24人が戦死だそうです。

このおじさんに会いたかったなー。せめて大好きな荒井良二さんの絵本を読んで、夢の中で空を一緒に飛び回ろう。



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